March 01, 2017

ジパング残酷物語 遠藤周作&マーティン・スコセッシ 『沈黙 -サイレンス- 』

Silence1ああー これはもう完全に公開終わってしまったなー(そんなんばっかしや) 遠藤周作の不朽の名作を大御所マーティン・スコセッシが映画化。『沈黙 -サイレンス- 』ご紹介します。

時は17世紀。ポルトガルの修道士ロドリゴは、敬愛していた師のフェレイラが遠い日本の地で消息を絶ったことを知らされる。フェレイラはかの地で体制側に寝返り棄教したという噂も流れてきた。ロドリゴは同胞ガルペと共にキリスト教が弾圧されている日本に渡り、師の安否を確かめるべく旅立つが…

この作品、映画を先に観てしまったらもう原作は読まないだろうと思い、珍しくはりきって原作を先に読みました。鎖国の時代のキリシタンが迫害される話なので確かに重苦しくはあるんですが、でも不思議と秘境探検ものみたいな面白さがあるんですよね。当時のヨーロッパ人にしてみれば日本もアフリカや南米と変わらぬ未開の地だったわけで。自分たちと全く異なる文化を持ち、ついこないだまで国中で戦争に明け暮れていたとなれば乗り込んでいく側とすれば相当な勇気が求められたはず。そんな彼らに感情移入して読むと、前半はなかなかスリルとサスペンスに満ちています。加えてフェレイラはどうなったのか? 本当に教会を裏切ったのか?というミステリー的な要素もあります。この「未開の地へある人物の謎を明かすために旅を続ける」というストーリー、コンラッドの『闇の奥』を思い出させます。
ただ中盤をすぎるとさすがにゴア描写やロドリゴの苦悩などが面白さに勝ってきて、「ああ、やっぱり純文学ねえ…」と感じ入りました。悩んで苦しんでたどりついたラストはなぜか意外とさわやかな印象でありましたが。
特に印象に残ったのはロドリゴの案内役となるキチジローというキャラクター。ウソつきで小心者で愚痴っぽくて、それこそ聖書の中のユダのように苛立つ人物なのですが、遠藤先生はこのキチジローに自分を重ね合わせて描いておられたそうで。ずいぶん謙虚な方だったんですね…

さて、映画のほう。一点を除くと実に原作に忠実でありました。ポルトガル人と日本人の共通語がなぜか英語というあたりはひっかかりましたが、日本描写は本当に違和感なく丁寧に作られていたので、そこは見逃してあげるべきでしょうか。
スコセッシ作品は主人公が「自分の悩み、苦しみを誰かにわかってほしい」というお話が多いです。『沈黙』に彼がひかれたのも同じテーマを見出したからでしょう。この作品の場合、わかってほしい相手が主に神様に限定されるわけなんですけど。でも神様はなかなか直接には言葉をくださらない。だから『沈黙』というタイトルなのですね。この辺現代日本人にはなかなかわかりにくい悩みかもしれません。日本人が書いた話なのにね(笑) ともかくその神の沈黙にどう折り合いをつけていくか、どれほど返事がなくても信仰をたもっていられるか… そういうお話なのだと思います。
そんなに深刻な映画なのに、どうも映像にされるとシュールというかユーモラスなものを感じてしまったわたくし。特に笑いをこらえていたのは塚本晋也監督が荒海で極刑に処せられるシーン。相当ハードな撮影で、塚本監督は「死ぬかと思った」「ここで死んだらスコセッシ喜んでくれるかな」なんてことを考えながら演じていたそうで。事前にそんなインタビューを読んでいたのがどうもいけなかったようです。原作では安らぎを覚えた結末も、映画の方はやっぱりなんでかけそけそけそと笑えてしまって。遠藤先生、スコセッシ監督本当にごめんなさい。
Yjimageslまあ自分はそんなでしたけど、日本について信仰について真摯に問うた映画なので、興味を持たれた方は是非ごらんください…ってもう公開終わっちゃったけどな! それにしても、あの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のあとでこんな重苦しい映画作るんだからスコセッシってやっぱりすごい人…というか人間の二面性が垣間見えて面白うございました。

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August 28, 2015

食べれますん 大岡昇平・塚本晋也 『野火』

Photoもう夏も終わりですね… みなさんよい思い出できたでしょうか。
わたしのお盆休みのメインは渋谷までこの重そうな映画を観に行ったことでした(^_^;  かつて市川崑も映画化したことのある大岡昇平の戦記文学に、鬼才・塚本晋也がチャレンジ。『野火』、ご紹介します。

終戦間近のフィリピンの島で、肺を患う日本兵・田村は食糧を求めてさまよっていた。時には一人で、時には仲間の兵隊たちとともに。わずかな望みをかけて友軍の集う拠点に向かおうとした田村たちだったが、米軍の攻撃は激しさを増すばかり。飢えと砲撃に極限まで苦しめられた田村の脳裏に、いつしかひとつの欲望がよぎりはじめる。

わたくし映画観た後原作も読んでみました。ストーリーは結末を除けば映画と大体一緒です。ただ原作は大岡先生の体験も多少交じってはいるんでしょうけど、あくまで架空の人物を主人公にしたフィクションとして書かれています。実際先生も「エドガー・アラン・ポーの『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』が枠となっている」と語っておられます。
一方映画の方は普通に田村=大岡先生として描いているように見えました。原作にはない「ものを書いていた」というセリフなどからそれがうかがえます。そして「現実もこれに近かったんでは…」と思わせられるほどのディティールと臨場感に満ちています。この辺は塚本監督の映像にかける執念の力がそう思わせるでしょうか。わたしたちもいつしか田村と共に腹をすかせ砲弾におびえ、森の中をうろつきまわっているような錯覚にとらわれます。

んで、これ太平洋戦争を主題にした映画ではありますが、政治的メッセージはほとんど感じられませんでした。そりゃ戦争はいかんと思うしこんな状況になったらすごく嫌ではありますが、旧日本軍だけに限らず、歴史を通じて世界のどこかで起きてることではなかろうかと。愚かな指導者の命令で、食料もろくに用意されず遠くに派遣された武装集団はやがてどうなるか。大抵は異国の地で餓死するか、地元の人たちになぶり殺しにされるかです。そんな極限状況で人はどうやって理性を保っていられるのでしょう。実際精神に異常を来してしまう者も少なくありません。しかし不思議なことにこれでもかというくらい地獄を経験している田村は、狂気との境をふらつきながらもなんとか理性を保ちます。

原作でも映画でも象徴的に描かれる「野火」。「野火」とは現地の人たちが野でたく火のことです(そのまんま)。この「野火」は何を表しているのか。ひとつ考えられるのは田村の中でかすかにゆらめく理性の光=人間性ではないかということです。なんたって基本的に火は人がおこすものですし、食べ物に火を通して食べるのも人間だけです。狂気に陥る一歩手前で彼をとどめているものなのかもしれません。
一方、火=危険なものと考えると全く別の意味が浮かび上がってきます。どちらかといえば劇中の「野火」は鬼火や狐火のような、だれがおこしたのかわからない不気味な印象を受けました。そうすると田村を禁断の欲望へと駆り立てる狂気の炎とも考えられます。
え~~~と、じゃあ結局どっちなんでしょう? 一生懸命考えた末、「よくわからない」という結論に達しました。 あるいはまったく別のものをさしているのか、大岡先生も意味とかあんまし考えてなかったのか… 文学ってむずかしいですねえ。

ま、そんな小難しいことを考えず映像だけでもビシバシ突き刺さる映画です。残酷なシーンもいっぱいありますが、塚本監督のセンスのゆえかそれなりに綺麗に見えました。個人的には後味もそんなに悪くありませんでしたし。ただこの辺は人によって意見が別れるところでしょう。「辛すぎた。トラウマになった」という人もいっぱいいます(^_^;

20150828_200843『野火』は決して上映館は多くありませんが、多くの評者の絶賛をあび、いま静かに話題を呼んでおります。劇場に関してはこちらをご覧ください。この度の映画化は大岡昇平という名前しか知らなかった作家に興味を持てたいい機会でもありました。代表作と言われる『俘虜記』も今日買ってきたのでおいおい読んでいこうと思ってます。


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December 10, 2014

悪いガキほど強くなる アゴタ・クリストフ ヤーノシュ・サース 『悪童日記』(映画版)

Img00927_2少し前にも書きましたが、わたし映画にはまる前はミステリー類を浴びるように読んでいた時期がありまして(かれこれ20年前…)、その中に今なお高い人気を誇る『悪童日記』三部作もありました。作者に興味が沸いてサイン会に行ったり、ブログをはじめてすぐのころにたどたどしい感想を書いたり、まあいろいろと思い入れの深い作品です。
その『悪童日記』がいつの間にか映画化され、日本でも公開されるという。幸い近くの映画館でもかかったので、俺が観ないで誰が観る!くらいの気持ちで行って参りました。映画版『悪童日記』、ご紹介します。

第二次大戦下のハンガリー。双子の幼い兄弟は、戦火から避難するために母の実家の辺鄙な村へと連れてこられる。親から離れて、冷たく厳しい祖母のもとで暮らす生活は兄弟たちにある決意をさせた。辛さや苦しみにあっても動揺しないよう、お互いを厳しく鍛えるのだと… ナチスの影が見え隠れするその村で、双子たちはたくましく生き、モラルから外れた様々なひとたちと交流していく。

今回はまずハードボイルドとはなんぞや、という点とともにこの映画を考えてみたいと思います。ハードボイルドとは暗黒街に生きる男たちが、やたらとかっこつけながら壮絶なガンファイトを繰り広げる…みたいなイメージを持つ人も多いかと思われます。仁義なき世界で生きる非情な男たち。そういう意味で一般に浸透している以上、それが正しいと言えなくもありません。
しかし本来ハードボイルドとはそういうものではなく、ある種の「文体」を指す言葉なのですね。心理描写や主観を一切排し、人が目に見えるものだけを、簡潔な文章でつづっていくという。映画も基本的には目に見えるものしか映し出しませんので、「映画的手法」なんて言われたりもします。
で、まさに『悪童日記』原作はそんなハードボイルドな作品でありました。双子たちが何を思い、何を感じているのか、わたしたちは地の文とセリフから推察することしかできません。そのあたりがなんとも面白く、不気味でもありました。またシビアな環境にあってもタフであろうとする兄弟の姿が、別の意味でもハードボイルドであったりして。
映画もこの点で原作の雰囲気を十分に再現しておりました。親のいないさびしさや祖母の暴言にもじっと耐える兄弟。さすがに小説よりは表情やセリフなどから普通の子供に近く見えましたが、突然なにをやりだすかわからない恐ろしさは原作に確かにあったものでした。
ただ小説の方の感想でも書きましたが、この双子たち、わたしたちのまわりの子供たちとそんなに大幅に隔たりがあるわけではないと思うのです。子供というのは純真な部分もあるし、残忍な一面も確かにある。誰かしら監督・保護者がいれば残酷な面はある程度抑えられますが、ずっとほったらかしにされたらいくとこまでいってしまうこともある…そういうことではないでしょうか。まして子供に優しくない環境にあっては。

というわけで先に原作を読んでいたので全部知っている話ではありましたが、自分の持ってるイメージとのズレが面白かったです。たとえばわたしの脳内では舞台となる村は年中薄暗く、双子の祖母はもっと小柄で魔女のようにやせているイメージでした。双子はもっと幼くてふわんふわんの金髪でしたね。
また原作は文体がそっけないせいかショッキングなエピソードでもすいすいと読めるのですが、映像で見せられるとやはり胃にズシリと響くシーンが幾つかありました。その辺は映像の持つ強みであります。
あと最後の双子の決断の場面、原作では抜き打ちのように衝撃的な一言が来たのでたまげましたが、さすがに映画ではあそこまで潔くスパッとはできませんでしたね… よくがんばっていたとは思いますが。

映画で観てあらためてしみじみと感動したのは、双子と祖母との関係がほんの少しだけ変わっていくあたり。魔女と呼ばれるこの祖母は自分の孫を「メス犬の子供」と呼ぶそりゃあひどいババアであります。それでも共に暮らしていくうちに、双子との間にそれなりに家族としての絆が芽生えていたように思えます。本当にあるかなしかの、わずかな絆ですけどね。そんなつつましく素直でない人情が、この作品によく似合っていました。

Adnk2原作ではこのあとにもう2作続編が書かれています。しかしこの続編が本当に一筋縄ではいかない内容でして。個人的には映画化はこの1作目だけでいいんじゃないかな~と。ご興味おありの方は早川文庫より出ている『ふたりの証拠』『第三の嘘』もぜひ手にとってみてください。
映画版の方はもう終わったところもありますが、これからかかるところもけっこうあり。詳しくは公式サイトをごらんください。

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December 01, 2014

死んだはずだよ大泉さん 加納朋子 深川栄洋 『トワイライト ささらさや』

51oafioxdl←これはあんまり関係ありません。
わたくし映画にはまる前に、どっぷりとミステリーにはまっていた時期がありました。その浴びるように読んでいた中に、東京創元社で賞を取られた加納朋子先生の『ななつのこ』もありました。北村薫の影響を感じつつも、章の合間に童話を挿入していくという独自の構成に感銘を受けたわたしは、2作目の『魔法飛行』にも手を伸ばしたのでした。
それから約20年(…)、奇妙なご縁で再び加納作品に興味を抱き、この度映画化された作品を原作ともども鑑賞いたしました。『(トワイライト )ささらさや』、ご紹介します。

ずっと家族というものと縁が薄かったうら若き女性「さや」は、優しい夫とめぐりあい、かわいい赤ん坊を授かり、ようやく幸せな家庭を手に入れる。だがその喜びもつかの間、夫は不慮の事故であっけなくこの世を去ってしまう。葬儀の席で呆然としていたさやは、経をあげにきた僧侶に助けられる。そしてその僧は驚くべきことを告白する。実は自分は一時の間この僧の体を借りた彼女の夫の霊なのだと…
その後赤ん坊を奪おうとする夫の遺族から逃げてきた「佐々良市」でも、さやが困ったことがあるたびに、夫は誰かの体を借りて彼女の前に現われるのだった…

というわけで『ゴースト ニューヨークの幻』を少し思わせるストーリーですが、そちらと違うのは霊であるだんなさんがその度に違う人の姿で現われるということですね。若い男の時もあれば、おばあちゃんの時もあり、幼い子供の時さえある。そして加納先生はミステリー作家でもあられるので、各章にひとつずつちょっとした「謎」が提示されます。もっともミステリー的な謎といっても殺人事件には発展したりせず、ごく日常のちょっとした不思議…という程度のものです。
あと考えようによってはとてもかわいそうな話なのに、死んじゃっただんなさんの語り口があまりにもひょうひょうとしているせいか、作品全体に心地よいユーモア感が漂っています。『ささらさや』という柔らかなタイトルが示すように、喜びも悲しみもさわやかに熱くならずに語られていくお話なのですね。物語のクライマックスでさえ、「え、これで終わりなの?」と思うくらいあっさりと通り過ぎていきます。

で、映画の方。まず大きな改変はイケメンサラリーマンだった旦那さんが売れない落語家の大泉洋になっちゃってます。それはどうよ… とは思いましたが、確かにいまをときめく大泉氏だけに幽霊なのにすごい存在感はありましたw
加えて原作ではあくまでさやと夫の交流がお話のメインとなってますが、映画の後半では死んだ夫とその父親との関係にだいぶスポットがあてられます。これもテーマが二つに分かれてしまった感はありましたが、石橋凌の熱演のせいか素直に感動してしまいました。おそらく監督の深川氏は男性だけに「自分が息子を亡くした父親だったら」ということに興味がむいてしまったのでしょうね。「しゃべりすぎ」とよく言われる日本映画。この作品もちょっとセリフがくどいところもありましたが、父子のすれちがいのくだりをずっとセリフなしで描写していたのはよくがんばっていたと思います。

あともうひとつ原作と映画との違いで印象に残ったのは、最後のある一言。その一言は原作では「やがて言うだろう」と予告されて終わり、そこでとどめておくのが小説のタッチによくあってます。しかし映画でははっきりとその一言が話されるのですね… そこで「ずりーよ」と思いつつもぶわっと涙腺が崩壊してしまいました。

子役のかわいらしさや達者さにも感銘を受けました。赤ちゃんのユウタロウ君が愛らしいのはもちろんのこと、さやの親友の息子大也君役のお子さんはまだ小さいのに長いセリフをよどみなくしゃべり続け、その記憶力や堂々たる態度に脱帽いたしました。将来が楽しみです。
Img00032ちなみに舞台である「佐々良市」は架空の町だそうです… 検索してもそりゃみつからないわけだ。
『トワイライト ささらさや』は現在全国の映画館で上映中。公開初週は見事第1位に輝くという快挙をなしとげました。
小説ではNHKでドラマ化された続編『てるてるあした』や、さらに続きとなる『はるひのの、はる』といった作品もあるので、近いうち手を伸ばしてみたいと思っています。

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February 16, 2013

仲良きことは難しきかな 西加奈子・廣木隆一 『きいろいゾウ』

1これまで度々奇妙な縁で追いかけてきた自主映画作家の片岡翔氏。その片岡氏が脚本を手がけた作品が、全国規模で公開されるというので張り切って観て来ました。西加奈子先生の小説を原作とした『きいろいゾウ』、ご紹介します。

小説家のムコとその妻のツマは、結婚してまもなく田舎の古い家に越して来る。子供のようなツマは時々感情をもてあまして落ち込んだりするが、優しい夫と穏やかな日々を送っていた。隣の老人アレチさんや、登校拒否の小学生の大地君らも、夫婦の暮らしに笑顔をそえる。だがムコの哀しい過去が徐々に明らかになるにつれ、二人の間にぎこちない空気が生じ始める。

ムコ氏をツマ嬢も、とても繊細というか、「弱い」人たち。ツマは幼いときの病気が原因なのか、本当に子供がそのまま大きくなったような女性。ムコ氏はとても慕っていた叔母の悲劇的な死がショックで、人の死に接すると深く動揺します。しかし弱いからといって、それは悪いことではありません。むしろ強くて無神経でいたずらに人を傷つけるような連中の方がよほどやっかいな存在といえます。すべての田舎がそうではないだろうけど、幸い舞台となる場所は弱い二人にとってうってつけの暖かく優しい土地でした。またムコとツマも一方的に与えられるだけでなく、悩める大地君や田舎の老人たちに元気をわけていきます。しかし人生、時には哀しさと向かい合わなければならないこともあります。そしてその哀しみが二人の間に溝を作っていきます。

お互い愛し合ってはいても、コミュニケーションというのは難しいもの。まして出会ってろくに話す間もなく結婚したムコとツマはお互いの間に知らないことがたくさんあります。デリカシーのないわたしからすれば「普通に打ち明けりゃいーじゃねーか」などと思うわけですが、きっと「話したら相手を失ってしまうのでは」と思うとそう簡単にはいかないものなのでしょうね。そういや自分は「何が何でもこの人だけは失いたくない」という経験をしたことがないな。ふうううう ともかくそうやって試練を乗り越えていくことで絆というのは深まっていくものなのでしょう。

このあと映画と原作はどのくらい違うのかと思って小説の方も読んでみました。主な流れはほとんど一緒でしたが、小説の方は文庫で約500ページとなかなかのボリュームなので、細かいエピソードが幾つか省略されております。で、小説はムコとツマが交互に一人称で語っていく構成なので、特にツマの方は映画と違ってえらい饒舌な印象を受けます。ですからその分映画よりも、彼女が何を思っていたのかわかりやすく伝わってきます。しかし映画は映画で登場人物が何を思って行動してるのか考えなが見ると、とても楽しめると思います。それこそ男女間のコミュニケーションの参考にもなるでしょう(笑)
あとわたしこれは映画ならではだなあ、と感じたのが、時折挿入されるツマが愛読してた絵本のパート。スクリーンいっぱいにこういう水彩っぽい絵が動く映画というのはあまりないと思うんですよね。そしてただ個性的なだけではなく、作品にマッチした温かみを胸に残していってくれました。

偶然なのかそういう資質を買われたからなのか、これまでの片岡氏の世界といろいろ通じるものがあったのも楽しかったです。屈託のない、でもそれなりに色々悩みの多い子供たちの描き方とか、残酷さと優しさが入り混じったムードなどね。これからもさらなる活躍を期待しております。

20130215_220846『きいろいゾウ』は現在全国の劇場で公開中です。書き忘れてましたが主演が宮崎あおいさんと向井理君。二人のファンはもちろん、動物好きにもおすすめです。


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October 22, 2010

お前とオレとの兄弟墓場 アゴタ・クリストフ 『第三の嘘』

101022_18540115年ぶりの再読をしてみた『悪童日記』三部作もいよいよ完結編のレビューとなりました。第一部『悪童日記』、および第二部『ふたりの証拠』を読まないと意味をなさない作品なので、まずはそちらを読んでからトライされてみてください。この記事もまあまあネタバレすちゃってるので、できたら読了後に来てくれた方がいいかも。

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ではあらすじから。双子の兄弟を故郷に残し、国境を越えた男「リュカ」は何十年かぶりに帰国を果たす。だがそこに再会を熱望した兄弟「クラウス」の姿はなかった。そして男が「クラウスが書いた」と主張した日記は、すべて彼自身が書いたものであった。失意のうちに故郷をあとにする「リュカ」。だが彼は別の街で、生き別れた兄弟「リュカ」と思しき男を見つけ出す。

第一作・第二作と、おおむねクーセグの村で時間通りに進行していたお話ですが、この第3作では位置的にも時間的にも入り組んだ構成となっております。過去にいったかと思えば現在に戻ったり。舞台もクーセグ、国境の向こう側、そしてブダペストと転々と変わっていきます。お話の語り手も前半と後半で、バトンタッチしております。

また、一作目と二作目では衝撃的な結末でもってわたしたちを呆然とさせてくれたアゴタさんですが、完結編ではこれまでの謎に一応合理的な決着がつけられます。前二作のどこまでが真実だかわからなくなる、そんな幻惑的なムードが気に入っていた方には、この辺やや興ざめかもしれません。

『ふたりの証拠』では「置いていかれることの哀しみ」が描かれていました。対してこちらでは「故郷を失ってしまった哀しみ」が描かれております。どちらの方がより辛いのか・・・ それは両方経験した方にしかわからないでしょう。
ただ、作者クリストフ女史に近いのは、今回第一部の語り手を務める「リュカ」の方でしょう。政治運動に参加したために国外逃亡の道を選んだ彼女ですが、東西の壁が崩壊した後も、ハンガリーには戻っていないようです。生活そのほか色々な事情もあるのでしょうけど、かつての政権が滅んだとはいえ、もう彼女が愛したかつての故郷はそこにはない・・・ そんな風に感じているのかもしれません。ちょうど長年の歳月を経て再会した兄弟たちの絆が、元にはもどらなかったように。

わたし自身は十五年前読んだ時には、「三冊もかけたわりにはずいぶんとそっけないラストだなあ」なんて感じたものでした。しかし一応しそれなりに年を食った今読んでみると、不思議な安らぎが感じられるような気がいたしました。とても悲しい結末ではありますが、彼らが再び「家族」となるには、確かにこの方法しかなかったのかも。

アゴタ先生の第四長編『昨日』についても少し触れておきましょう。生まれ故郷の村を離れて異国の地で働く青年の、やるせない恋や日常を描いた作品。三部作と通ずるところも色々あり、訳者の堀茂樹氏は異国の地での「リュカ」の物語と考えることもできるのではないか、とおっしゃっておられます。ですが主人公の名前からして完全に違うので、やはりこれはこれで別のお話としてとらえるべきでしょう。三部作にあったような衝撃も、こちらにはなく、ただ淡々とお話は進んでいきます。でもまあこちらも読み返してみたら、また新たになにか発見できるかな?

101022_185455今夏の読書は、この三部作の再読でなんとなく終ってしまいました。そんな暗い夏休みはちょっとイヤだなあ(笑) でもまた折にふれ手にとってみたいものです。この物語にはそんな魔法のような吸引力が確かにあります。ハヤカワepi文庫より今もなお発売中。

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September 18, 2010

共産圏ひとりぼっち アゴタ・クリストフ 『ふたりの証拠』

100918_142604「いまさら『悪童日記』三部作をふりかえる」の第二弾。今回は『ふたりの証拠』を取り上げます。のっけからいきなり第一作『悪童日記』の結末をばらしていますので、未読の方はまずそちらからお読みください。

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いいですか?

自らの父親を犠牲にして、一人だけ国境を渡ることに決めた双子たち。故郷に残った片割れのリュカは、村はずれで今までと変わらぬ暮らしを営んでいた。そんなリュカの家に一組の母子が転がり込んでくる。父親の子を生んでしまったヤスミーヌと、足の悪い幼子マティアス。リュカはマティアスを自分の子供のように可愛がる一方で、次第に街に住む未亡人・クララと深い仲になっていく。

舞台はもちろん、前作と同じハンガリー。しかし戦争中だというのに奇妙な活気に満ちていた村は、共産圏の統治下に入ったことにより、やるせない空気で満ち満ちています。
禁書だらけで意味をなさない図書館、すっかりさびれてしまった酒場街、秘密警察の暴挙によりひどい傷を負った人々・・・・
そんなうすら寒い町の様子が、半身を失って孤独に苦しむリュカの姿にとてもよく似合っているというか。

彼がマティアスに愛情を注ぐのは別れた兄弟の代わりとしてであり、クララに魅かれていくのは彼女に母の面影を見たからかもしれません。しかしリュカの身勝手な愛情は当然のことながら実を結ぶことはなく、彼を一層深い孤独の中へと追いやっていきます。


著者アゴタ・クリストフ氏はやはりハンガリーで生まれ育ちながら、戦後の圧政に耐えかねて、スイスに亡命したという経歴の方です。恐らくは故郷への思いに後ろ髪ひかれながら、その決断をくだされたことでしょう。
分かたれた双子の片方は、故郷で生きていきたいという自分を、もう片方は新天地で希望を見出したいと願った自分を表しているのかもしれません。もしかしたらこうなっていたであろうもう一人の自分。彼女は果たせなかった望みを小説の主人公に託しますが、どうしてか彼に充足した生活を与えません。人というものは、どこでどう決断したとしても、結局は孤独と後悔に苛まれるものだと言うかのように。


久しぶりに読み返して印象的だった人物に、リュカが仲良くなる本屋のヴィクトールという男がいます。彼はずっと生涯で一冊の本を書きたいと願いながらも、なかなかペンを進めることができません。この三部作が発表されて十年。世界中の多くのファンがアゴタ女史の新作を心待ちにしていたと思います。しかし第四長編『昨日』はあまり秀でた作品とは言えず、以後彼女はわずかな戯曲・短編しか著していません。結果的に三冊と見ることもできましょうが、この双子の物語こそが、彼女にとっての「生涯で一冊の本」だったと言えるのかも。ただこの世には生きている間に一冊も書くことのできない人がほとんどなことを思うと、その一冊がこれほどな傑作であるというだけでわたしはアゴタさんが羨ましかったりします。


他にも前作に引き続き、多くの印象的な人物・エピソードが登場します。小銭を恵んで少女の股をのぞいていたあの司祭もそのまま出てきます。どうしょうもない男だと思っていましたが、今作では彼とリュカとのやりとりについ涙ぐんでしまったり。人の醜い面を描きながらも、どの人物も不思議と同情を誘うのは、著者の胸に宿っている深い哀しみゆえでしょうか。

100918_142711長い間待ち望まれた再会がついに果たされる・・・と思いきや、非常に衝撃的な文章でもって幕を閉じる『ふたりの証拠』。しかしまだ彼らの物語は終わりません。完結編『第三の嘘』のレビューも近日中に書く予定です。

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August 31, 2010

恐るべき双子たち アゴタ・クリストフ 『悪童日記』 

100830_175736このしょうもね~えブログも、これでとうとう1,000記事目です。これで・・・ ようやく・・・ 安心して終ることができます・・・ がくっ


うっそぴょ~ん(殴) すいません・・・ 最近猛暑で疲れているのです・・・ (一応)記念すべき1000記事目はこの本をご紹介いたします。その名もズバリ『悪童日記』。実はブログ開始当時続編・続々編ともにさらっとレビューしたことがあるのですが、五年以上経った今もなぜかちょくちょくアクセスがあったりします。先日久しぶりに再読したので、今度はもう少し本格的に(できんのか・・・)解説してまいりましょう。


時は第二次大戦時。ところはハンガリー。母親に連れられて田舎の村に疎開してきた双子の兄弟は、「魔女」と呼ばれる偏屈な老婆にあずけられる。過酷な環境の中で「強くならなければ」と自分たちを鍛える兄弟たち。個性的でインモラルな人々に囲まれ、移り変わっていくハンガリーの時代を目にし、やがて彼らは大人になった時、ひとつの重要な決断をくだす。


作品では兄弟が経験する多くのエピソードを、ごく短い章を連ねて語っていきます。また語り手が「双子」であるゆえか、感情描写の極力排されたいわゆる「ハードボイルド」な文体が用いられております。
この小説は同じ作者の『ふたりの証拠』『第三の嘘』へとつながり、ひとつのトリロジーをなすのですが、再読してみてあらためて思ったのは、やはりこの第一作はこれだけで十分完成された世界を築いているということでした。
逆に印象の変わった点は、前回読んだ時は主人公の少年たちがとても恐ろしく感じられたのに、年をそれなりに経た今になってみると、なぜか彼らがごく普通の子供に思えた点。まあ「普通の子供はこんなことしねえだろ」という方もおられましょうが、感情の見えないその文体の奥で、子供たちの悲しみ、怒りが前よりも見えるようになったとでも言いましょうか。


あと読み返してみてなんとなく思い出したのは、アニメ『火垂るの墓』(原作は未読ですcoldsweats01)。戦争という厳しい時代の中で、突然親と離れなければならなくなった兄弟たち。一応養ってくれる大人はいるものの、自分のことしか考えておらず、到底頼りにはできない。ならばどうやってお互いだけで生きていくか? 場所は違えど、二組の子供たちの境遇は非常によく似ています。ただ清太くんたちと違うのは、彼らがお互いに支えあい、助け合うことができたということ。そのゆえか、このお話は悲惨な境遇を扱った話でありながら、どこか奇妙な活気に満ちています。


作品で最も魅力的なのは、このハードボイルドな双子の兄弟でありますが、他の登場人物も強烈な個性を放っております。ごうつくばりで、夫を殺したのでは・・・という噂のある兄弟たちの祖母。兄弟たちには優しいけれど、ホモでマゾでプチスカトロ趣味もある美青年のドイツ将校。隣の家に体の悪い母親と住む、やりたい盛りの少女「兎っ子」などなど。
こうした登場人物と比べるとややおとなしめですが、兄弟たちに靴をプレゼントしてくれるあるおじさんのエピソードも胸を打ちます。
「どうしてぼくらにこんなにくれるんですか」
「私にはもう必要ないからさ。私はもうじき、ここを発つんだ」
「どこへ行くんですか?」
「この私には、見当もつかないよ・・・・・・・。どこかへ連行されて、殺されるのさ」


解説によるとこのおじさんはユダヤ人であることが示唆されています。そして当時の情勢や場所がハンガリーであることを考えると・・・crying
最初は「ありがとう」と言いたくないと言っていたのに、去り際に感謝の言葉を述べていく兄弟。こうしたところからも彼らが悪魔的な存在などではなく、ごく普通の感情を持つ子供たちであることがうかがえます。


作者のアゴタ・クリストフはハンガリーに育ちながら、旧ソ連の統治に反発し、やがてスイスに亡命したという経歴の方。そうした背景がラストの兄弟の決断に関わってくるのですが、この点に関しては続編『ふたりの証拠』レビューの際に語ることとしましょう。

100830_180023最近の翻訳小説というものは、出た当時は話題を読んでもわりとすぐに絶版になってしまうものが多いですけど、この『悪童日記』はハードカバーが出されて約二十年経った今も普通に入手できます。それだけの「力」がある連作ということなのでしょう。ハヤカワepi文庫より入手できますので、読書感想文の題材をお探しの学生さんはぜひ・・・ って、もう夏休み終りじゃん!

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July 16, 2010

授業の復讐忘れずに 湊かなえ 『告白』(原作)

100716_181024久方ぶりの読書記事・・・ 予想以上の大ヒットで「社会現象」とまで言われてる映画『告白』。本日はその原作を紹介します。

あらすじは映画と一緒(当たり前か)なんですが、一応手短に書いておきますか。春休みを目前に控えたある中学校。終業式後のHRで教師、森口は生徒たちを前にこれが彼女の最後の授業であることを語る。これまでの人生、職を辞す理由、少し前に起きた愛娘の死・・・ そして彼女の次の一言が、その場にいる生徒たち全てを震撼させる。「愛美は死にました。しかし事故ではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」

まず読んでおどろいたのは、最初の一章だけで見事にきれいにまとまっているということ。つまり映画でいうと最初のHRの部分ですね。日常のごくありふれた光景が次第に狂気を帯びていき、そして最後に胸をえぐるような一言が放たれる。本当にサスペンス短編のお手本のような構成。
それでウィキペディアで調べてみましたら、やはりこの作品、最初の第一章のみが一つの作品として発表されたようです。作者の湊先生は「最初は続きを書こうとは思っていなかった」とか。

そこを敏腕の編集さんが「もっとこういう風に膨らませられるんじゃないか」と言ったかどうかは知りませんが、さらに五つの章が足されることになりました。それぞれ生徒やその母親などの、独白や手紙、日記からなっていて、つまりどの章もタイトルにあるように、誰かの「告白」であります。全て一人称か二人称で書かれていて、まるでリレーのように事件の経過と真相がつづられていきます。最初の章なんかは森口先生が生徒たちにほぼ一方的に語りかけるだけなので、生徒たちの反応は最小限しかわかりません。この辺特に映画と小説、それぞれの表現の違いを感じることができます。また、どの章にも最後にはドキッとするような結末が用意されていて、先に映画を見て流れを知っているにも関わらず、いちいちショックを受けたりしましたwobbly

映画の記事にも書きましたが、人は自分の気になる人に、こういう人であってほしい、こういう風に思っていてほしい、と願うものです。
原作においてはその点はさらに顕著です。美月は森口の中に「倫理感が残っていてほしい」と願い、直樹の母は息子に「本当は優しい子である」と信じ、直樹は修哉が「自分のことを認めてくれている」と信じ、修哉は母親が「いつか自分を暖かく迎えてくれるはずだ」と期待します。そしてそういった期待のずれが連鎖反応を起こして大きな悲劇を産み、さらにまた別の悲劇へとつながっていく・・・ 本当にイヤな話でありますが、その緻密に組み上げられたストーリーには舌を巻かされます。


以下、結末を割ってます。ご注意ください。

映画にはまだなにがしかのユーモアや、あるかなしかの温かみが感じられましたが、小説には一片の逃げ場すらありません。とことん登場人物をを絶望の淵に追い込みます。
映画の記事で「森口は実際には爆弾をしかけてはいないのではないか」と書きましたが、小説の森口先生はまずまちがいなくふっとばしてますね。

文庫版の巻末には中島監督のインタビューが付されているのですが、それを読むと中島氏はやっぱりそれなりに子供に親しみを抱いていると思います。「なんだかんだ言って、彼らは人が嘘をつくものだとは思いたくないんですよ。みんな優しいんですよね」
しかし恐らく湊先生は子供があまり好きではないんでないかな、と。大抵の子供たちって純真である反面、どこか小ずるい部分も持っているもの。中島監督はそういう部分も受け入れられるのだろうけど、湊先生の方はどうにもそこが許せない。そんな風に自己欺瞞や偽善、表面上しか物事を見ない人への怨念のようなものを本書からは感じました。あー 怖いshock

ちなみに湊先生、もっとも影響を受けた作品に島田荘司氏の『暗闇坂の人食いの木』をあげているとか。・・・なんか意外な気がしました。あちらは心理的にはそんなに深くつっこんだ話ではないので。読後感なんかむしろさわやかだったりします。たぶん影響を受けたというのは、複数の文体を駆使して、謎の見せ方を工夫したり、お話にリズムを持たせたり、そういうテクニックのあたりではないでしょうか。

100716_181047そういやいわゆる「新本格」には、こういう文体に技巧を凝らした作品がいっぱいあったなあ。そういうのもっと読みたいという方は、綾辻行人氏や折原一氏などの著作をおすすめします。
夏は行楽もいいですけど、読書にも励みましょう。それではみなさん、良い夏休みを(松たか子風に)

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March 23, 2010

光なし ジョセフ・コンラッド 『闇の奥』

100323_181021趣味?の読書コーナー。今回は1902年に発表されたイギリス文学の傑作『闇の奥』を紹介いたします。ていうか、また『闇』ですか! 

船乗りのマーロウは、出港したばかりの船の上で、仲間たちに奇妙な話を語る。まだ駆け出しだったころ、彼はアフリカの奥地で、絶大な影響力を持つクルツという男の噂を聞く。象牙の交易のため、マーロウはクルツに会いに行くことになる。道中幾つかの困難を経て、ついにマーロウはその男と対面するのだが・・・

まず、この本を読もうと思った経緯から。昨年ジャック・ロンドンにどっぷりとはまり、入手しやすいものは大体読んでしまったワタクシ。で、ほかに似たようなものはないかな・・・と、『白い牙』『野性の呼び声』を出してる光文社古典新訳文庫のラインナップを眺めていたところ、この本を見つけたのでした。
タイトルは折に触れ聞いたことがありました。大学時代、英国文学史の授業で先生が絶賛していたり、キューブリックの名作『地獄の黙示録』の原案と何かで聞いたり、はたまた最近の『キングコング』で船乗りの少年が熱心に読んでいたり。
そんなわけで、前々から興味はあったのでした。きっとロンドンばりのハードでたくましい、海の男たちの物語に違いない!と意気込んで望んだのですが。が・・・・・

これ、はっきり言って難しかった・・・・(笑)

いや、ストーリーは上に書いてあるように極めてシンプルなんですけどね。一言でいや語り手のマーロウが、ジャングルの奥地に謎の男を尋ねていく話。脇筋はほとんどなく(なんせ全部で200ページ弱)、本当にただそれだけ。
難しいのは、「果たしてこの小説が何を言いたいのか?」ということ。それを考え出すと、それこそジャングルの奥地に迷い込むような錯覚を覚えます。これに対しては今までも様々な議論がなされてきたようで、お偉い先生の中にも「なんも意味なんてねーよ」という人もいれば、「当時の植民地支配を風刺しているのだ」なんて人もいたり。極論すれば、話の意味は個々がそれぞれに何かしら見出せればそれでいいのかもしれません。

わたしとしては、ひとつの探求を描いたお話だと感じました。得体のしれない謎を知った時、人は恐怖を感じながらも、その正体を見極めてみたいと思うものです。しかしいざその謎に迫ってみると、さらに深い謎がその後に続いていたり・・・というような。わたしが言えるのはこの程度です。お偉い先生方、どうぞ笑ってやってください

単純に当時のアフリカの様子を知るための、探検物語として楽しむこともできます。その場の空気が匂ってくるようなねちっこいタッチは、作者のコンラッドが実際に船乗りとして働いていた経験により培われたものでしょう。全体としてはフィクションであるものの、そこに書かれていることの多くは、100年前のアフリカの真実の姿なのだと思います。

現代は『Heart Of Darkness』。Heartはご存知のように心臓を表す語ですが、「中心」という意味で使われることもあるようで。そこを「奥」としたあたり、最初の訳者さんのセンスを感じます。たしかにこの人外魔境へズンズンとわけいっていく感じは、「心臓」より「中心」より「奥」という言葉が一番ぴったりくるような気がします。

100323_180850読書コーナー、次は本当~~~に久々の『指輪物語』を扱う予定。中つ国もまたなかなかに険しいところでありまして。


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