悪いガキほど強くなる アゴタ・クリストフ ヤーノシュ・サース 『悪童日記』(映画版)
少し前にも書きましたが、わたし映画にはまる前はミステリー類を浴びるように読んでいた時期がありまして(かれこれ20年前…)、その中に今なお高い人気を誇る『悪童日記』三部作もありました。作者に興味が沸いてサイン会に行ったり、ブログをはじめてすぐのころにたどたどしい感想を書いたり、まあいろいろと思い入れの深い作品です。
その『悪童日記』がいつの間にか映画化され、日本でも公開されるという。幸い近くの映画館でもかかったので、俺が観ないで誰が観る!くらいの気持ちで行って参りました。映画版『悪童日記』、ご紹介します。
第二次大戦下のハンガリー。双子の幼い兄弟は、戦火から避難するために母の実家の辺鄙な村へと連れてこられる。親から離れて、冷たく厳しい祖母のもとで暮らす生活は兄弟たちにある決意をさせた。辛さや苦しみにあっても動揺しないよう、お互いを厳しく鍛えるのだと… ナチスの影が見え隠れするその村で、双子たちはたくましく生き、モラルから外れた様々なひとたちと交流していく。
今回はまずハードボイルドとはなんぞや、という点とともにこの映画を考えてみたいと思います。ハードボイルドとは暗黒街に生きる男たちが、やたらとかっこつけながら壮絶なガンファイトを繰り広げる…みたいなイメージを持つ人も多いかと思われます。仁義なき世界で生きる非情な男たち。そういう意味で一般に浸透している以上、それが正しいと言えなくもありません。
しかし本来ハードボイルドとはそういうものではなく、ある種の「文体」を指す言葉なのですね。心理描写や主観を一切排し、人が目に見えるものだけを、簡潔な文章でつづっていくという。映画も基本的には目に見えるものしか映し出しませんので、「映画的手法」なんて言われたりもします。
で、まさに『悪童日記』原作はそんなハードボイルドな作品でありました。双子たちが何を思い、何を感じているのか、わたしたちは地の文とセリフから推察することしかできません。そのあたりがなんとも面白く、不気味でもありました。またシビアな環境にあってもタフであろうとする兄弟の姿が、別の意味でもハードボイルドであったりして。
映画もこの点で原作の雰囲気を十分に再現しておりました。親のいないさびしさや祖母の暴言にもじっと耐える兄弟。さすがに小説よりは表情やセリフなどから普通の子供に近く見えましたが、突然なにをやりだすかわからない恐ろしさは原作に確かにあったものでした。
ただ小説の方の感想でも書きましたが、この双子たち、わたしたちのまわりの子供たちとそんなに大幅に隔たりがあるわけではないと思うのです。子供というのは純真な部分もあるし、残忍な一面も確かにある。誰かしら監督・保護者がいれば残酷な面はある程度抑えられますが、ずっとほったらかしにされたらいくとこまでいってしまうこともある…そういうことではないでしょうか。まして子供に優しくない環境にあっては。
というわけで先に原作を読んでいたので全部知っている話ではありましたが、自分の持ってるイメージとのズレが面白かったです。たとえばわたしの脳内では舞台となる村は年中薄暗く、双子の祖母はもっと小柄で魔女のようにやせているイメージでした。双子はもっと幼くてふわんふわんの金髪でしたね。
また原作は文体がそっけないせいかショッキングなエピソードでもすいすいと読めるのですが、映像で見せられるとやはり胃にズシリと響くシーンが幾つかありました。その辺は映像の持つ強みであります。
あと最後の双子の決断の場面、原作では抜き打ちのように衝撃的な一言が来たのでたまげましたが、さすがに映画ではあそこまで潔くスパッとはできませんでしたね… よくがんばっていたとは思いますが。
映画で観てあらためてしみじみと感動したのは、双子と祖母との関係がほんの少しだけ変わっていくあたり。魔女と呼ばれるこの祖母は自分の孫を「メス犬の子供」と呼ぶそりゃあひどいババアであります。それでも共に暮らしていくうちに、双子との間にそれなりに家族としての絆が芽生えていたように思えます。本当にあるかなしかの、わずかな絆ですけどね。そんなつつましく素直でない人情が、この作品によく似合っていました。
原作ではこのあとにもう2作続編が書かれています。しかしこの続編が本当に一筋縄ではいかない内容でして。個人的には映画化はこの1作目だけでいいんじゃないかな~と。ご興味おありの方は早川文庫より出ている『ふたりの証拠』『第三の嘘』もぜひ手にとってみてください。
映画版の方はもう終わったところもありますが、これからかかるところもけっこうあり。詳しくは公式サイトをごらんください。
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