高畑勲を語りたい 高畑勲 『かぐや姫の物語』
今日からまた一週間姪っ子をあずかることになりました。かわいいんですけど初日から体力をだいぶ削り取られておりますw しかし年末までに今年見た映画の感想はすべて書いておきたいので、死力を振り絞ってがんばります。
今日はあの高畑勲14年ぶりの新作『かぐや姫の物語』をご紹介します。ではあらすじから
今は昔、竹取の翁( おきな)というありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろずのことに使いけり。名をば、さぬきの造(みやつこ)となん言いける。その竹の中に、もと光る ..(略)
説明するまでもありませんね。お話自体はわたしたちが良く知っているあの『竹取物語』そのまんまです。ただ二時間も尺がありますので、原典ではうかがい知れなかった複雑な少女の心のうちを丁寧に丁寧に追っているのが本作品の特徴と言えます。
今回は『かぐや姫の物語』にかこつけて高畑作品の特徴についてダラダラ語らせていただきます。
あの名作『母を訪ねて三千里』製作時高畑氏と宮崎駿氏は方向性を巡って激しく言い争ったそうです。宮さんはマルコが旅先で人々に助けられる人情モノにしたかったのに対し、高さんは色々辛い仕打ちに合う社会派ドラマをやりたかった。この件に対して両雄は一歩もゆずらず、ついに切れた宮さんは「こんなスタジオ燃えちまえ!」と叫んだとか・・・
『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』、そして今回の『かぐや姫の物語』。時にファンタジー要素も織り込みつつも、きちっと厳しい現実を見据える。それが高畑勲監督のスタイルであります。『となりの山田くん』に関してはわたし観てないのでなんともいえますせん。すいません。
あとエヴァ関連のインタビューで庵野秀明氏が「宮さんはまず絵をイメージしてそこから話を作っていくのに対し、高畑さんはまず訴えたいテーマがあって、そこから絵をつけていく」ということを語っておりました。
宮崎さんと高畑さんの数少ない共通点としては、「幼女・少女の描写がきめ細かい」ということがあげられます。しかしこの点に関しても宮さんが少女に幻想というか理想を重ねるのに対し、高畑さんの描く少女は仕草も話す言葉もめちゃくちゃリアルであります。それでもなお、無垢で尊いものとして私たちの目に映る… そういうところに高畑さんの表現者としての力強さを感じます。
少女たちがイノセントで力強いのに対し、いまひとつ頼りないのが男たち。高畑作品では基本的に男は役に立たないか身勝手なものとして登場します。例外は『おもひで~』のトシオ君くらいでしょうか。
特に『かぐや姫』は男の頼りなさ、身勝手さが目立つお話でありました。そんな男ばかりゾロゾロ10人ばかり出てきます。もっともまともそうだった捨丸ですら後半に入るとあの体たらくですから。まあわたし基準で考えてますけど、本当に男というものはつくづく頼りないものです。ちなみにこの「少女の尊さ」「男の身勝手さ」がもっとも如実に表れた高畑作品が『じゃりン子チエ』。まあこれにはしっかりした原作がありますけどね。
男をあてにしてはいけない。基本的に自分の力でなんとかしていかなければいけない。そのことに気づいたとき、少女は幼虫が蝶に変わるように大人の女性として生まれ変わるのかもしれない… というのはさすがに深読みでしょうか。
話は変わりまして絵のタッチに関して。現代ニッポンではアニメといえばセル状のピカピカしたものか、CGのように乾燥した画質のものと相場が決まっております。しかしアニメには他にもまだまだ様々な形態のものがあります。
今回高畑監督が意識したのは一時期上海でよく作られた水墨画調のアニメ(例『鹿鈴』や、カナダのパステル調の作品(例『クラック!』などかと思われます。この『かぐや姫の物語』をきっかけに、アニメという表現の幅の広さが多くの人に伝わればいいな、と思いました。ただこの淡い線・色調の方式、時間もお金も半端なくかかるようですけどね…
というわけで『かぐや姫の物語』は『風立ちぬ』に及ばないながらも全国の劇場で大ヒット公開中。先ごろ引退を表明した宮崎氏に対し、「引退なんて考えたこともない」と言う高畑氏。まだまだ「若いやつらに任せちゃおけん!」と傑作を作り続けてほしいものです。
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